GIFアニメ 日々の新聞
CONTENTS
仲間たちの野辺送り
蔡國強といわきの物語
 
日々の新聞
風の通る家
いわきクロニクル
オンブズマン
編集後記
招待席

田人お伽草紙
草野天平の頁
HIBINO IN IWAKI
時のゆくえ
仲間たちの野辺送り
蔡國強といわきの物語
DUO
オリジナルショップ
定期購読
リンク集
火薬画「龍の二」を制作する蔡 1993年


 1988年(昭和63年)の3月、ギャラリーいわきを経営する藤田忠平は、東京・江古田にあるギャラリー・フォレストにいた。父親の仕事の関係でいわきを訪れ、藤田のギャラリーに立ち寄った美術評論家の鷹見明彦。その時、鷹見に見せられた蔡國強の火薬画の写 真に激しく心を揺さぶられた藤田は、その現物を実際に見るために上京したのだった。
 蔡の火薬画と向き合った藤田は、ある作品の前で動けなくなった。それは、中国にいるときに制作したもので、「印触」という題が付いていた。カンバスに褐色系の油絵の具で下塗りをし、そのあと火薬で爆発させ、模様というかモチーフを浮き出させる。火薬の量 が多く勢いが出たのだろう。カンバスのところどころに穴が開いていた。横48.5センチ、縦39.5センチ。この絵には40万円の値段が付いていた。
 「どうしても欲しい」。藤田はそう思った。しかし、金がなかった。ギャラリーのオーナーと話し合い、分割払いにしてもらって購入することにした。  蔡とも話した。蔡は片言の日本語で、明快に作品や制作の意図を語った。「一度アパートに寄せて欲しい」。藤田が言った。「ああいいですよ。いつでもどうぞ」。蔡は屈託なく答えた。それから、蔡と藤田の切っても切れない関係が始まった。

■ 銀嶺荘

 当時蔡は、都営地下鉄三田線の板橋本町駅から歩いて10分ほどのところに住んでいた。木造平屋の棟割りアパート「銀嶺荘」。蔡はそこの4畳半一間の部屋に、油彩 画家で夫人の呉紅虹と一緒に暮らしていた。部屋には中国から持って来た二人の作品や画材が所狭しと置かれ、天上にも作品があった。家財道具といえばベッドと小さな机だけの部屋。そこは間違いなく、蔡と呉二人の小宇宙と言えた。
 藤田はまず、駅で蔡と待ち合わせ、その住居兼アトリエを訪ねた。生活は苦しそうだった。しかし、蔡は苦しいそぶりなど見せなかった。それまで何回か開いた個展では、額を買うことができず、画材屋から額を借り、売れた分だけ代金を支払う方法を取った。だから傷が付かないように慎重に額装した―と言った。そうした生活ぶりを見て、蔡と話しているうちに、藤田の心の中に「いわきで蔡の個展をやりたい。損得ではなく、いわきの人々に蔡の作品を紹介したい」という思いがわき上がってきた。蔡に促すと、「いいですよ。やりましょう」と、つるりとした顔で言う。蔡の、いわきで初めての個展が決まった瞬間だった。

■ 革命の根拠地

 その年の5月、平レンガ通りのギャラリーいわきで、蔡の個展「火薬画の気圏」が開かれた。作品は火薬画が中心だが、中には1980年から1983年にかけて制作された油絵も含まれていた。蔡はそれらの珠玉 の作品に「売れないと困るから」と破格の値段をつけた。それは、藤田にとって驚きだった。藤田は、できるだけ蔡の作品をさばいてやろうと思い、知人や友人に「とっても良い作品です。買っておいて損はないですよ。将来、絶対伸びる作家ですから」と勧めた。そして藤田は、それをきっかけに、いわきで蔡と呉の個展を積極的に開き、蔡といわきを結ぶきっかけをつくっていくのだった。
 蔡は書いている。
 「私は東京から出て、毛沢東の“農村が城市を包囲する”という戦略のように200キロも離れたいわきにやって来たのです。いわきは私の“井岡山”のように“革命の根拠地”です。いわきの人たちは、私と妻を中国人アーティストとして新鮮な目で評価し、そして変わらない一人の人間としての優しさまで評価してくれて、どんどん親しくなりました。最初、絵は数千円から数万円、一点一点は持ちやすく、絵そのものは友をつくる縁となり、私たち家族の生活を支えてくれました。日本に生き残り、万里長征の出発の自信となったのです」
(この項つづく=敬称略)




日々の新聞風の通 る家いわきクロニクルオンブズマン情報
編集後記田人お伽草紙草野天平の頁日比野克彦のページ
フラガールオリジナルショップ定期購読リンク集

 
ホームへ画面上へ