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「太古の烙印―No.9」紙 岩彩火薬 1985年


 蔡國強の芸術を語る時、テキストのようになっている文章がある。1999年の『美術手帖』3月号に掲載された「龍、奔る―全時空的旅程総覧」。美術評論家の鷹見明彦が書いた。そこには1987年から1998年までの、鷹見の目から見た蔡の道程がきちんと書かれている。

■ 来日

 蔡は1986年12月に来日した。そのころの中国は、トウ小平の対外開放政策が進み、私費で留学する人たちが急増していた。とりあえず日本語学校に籍を置くかたちでの留学が多く、特に上海周辺からが目立った。蔡も、そうした波に乗って来日した一人、と言えた。  蔡が来日した1986年の12月から鷹見と初めて会った1987年の7月まで、蔡が日本でどんな暮らしをしていたかは、定かではない。ただ、ごくわずかな断片的な情報を組み合わせてみると、当時の生活ぶりがほんの少し垣間見ることができる。
 逸話の一つ。地平線プロジェクトに携わった志賀忠重が夫人の呉紅虹から聞いた。ほとんどの時間寝ていた、というのだ。呉は寝てばかりいる蔡に「どうしてそんなに寝てばかりいるの?」と尋ねると、蔡は答えた。「近い将来寝る暇がなくなるほど忙しくなる。だから今のうちに寝だめをしているんだよ」と。
 さらにもう一つ。蔡の文章。
 「日本に来たとき、まず銀座の沢山の画廊を廻ってとても興奮しました。千軒もあるという画廊は、すなわち千のチャンスがあると…。しかし自分で絵を持ってきた留学生たちの絵を見ないのが皆そうであるなら、画廊は一つもないのと同じだった」
 年平均気温が20度強という温かい泉州から時には氷点下にもなる最も寒い東京に降り立った蔡。自らの原始壁画を拓本にした火薬画などを持ち、意気揚々とやって来た日本のはずだった。しかし、そこは自分が思っていたイメージとかなりの隔たりがあった。東京・板橋の「銀嶺荘」という小さなアパートで、体と心の寒さに耐えながら妻と途方に暮れている、そんなシーンがフラッシュバックのように現れては消えた。

■ 国立で

 1987年7月のある日。鷹見は東京・国立市の街はずれにあるギャラリー「KIGOMA」を訪れた。小さなビルのペントハウスにある3坪ほどの空間。1ヵ月ほど前にたまたま手にしたDMに「火薬画」の文字があり、それに惹かれて訪ねたのだった。わかりにくい場所で見つけるのに苦労したが、扉を開けると、そこはまるでほの暗い洞窟のようだった。壁はほとんどが大きな絵で埋まっており、褐色や群青の背景から象形文字のような人型や天体らしいかたちが浮かびあがっていた。「まるで原始絵画が渦巻く洞窟にでも入ったようだ」。鷹見はそう思った。
 長身の蔡はその空間の奥に座っていた。名刺には、中国や上海、福建省の肩書きがたくさん並んでいた。さらに150号の大作には300万円の値が付いており、日本の美術年鑑に自分の中国でのキャリアを照らして換算した、とたどたどしい日本語で説明した。そして「こんなに賑やかな街なのにどうして客が来ないのだろう」。蔡はそう言った。

■ ギャラリー磐城

 この二人の出会いが蔡といわきをつなぐきっかけになった。父親の仕事の関係で、いわきを訪れた鷹見が、平レンガ通 りのギャラリー磐城に立ち寄ったのだ。そこで鷹見は、オーナーの藤田忠平に「火薬画をやっている中国人アーティストがいる」と蔡を紹介する。1988年のことだ。3月に東京の江古田にある「ギャラリーフォレスト」で蔡の個展があるという。「じゃぁ、見に行きましょう」。藤田が答えた。その後、切っても切り離せなくなるほど、強い絆で結ばれることになる、蔡といわきとの関係がつながった瞬間だった。
(この項つづく=敬称略)




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