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蔡達はいわきを離れてしまった「三丈の塔」(右下)の代わりに「いわき九十九の塔」(左上)を作った


 平成6年(1994)3月31日、蔡國強が公立美術館で行った初めての個展「環太平洋より」が終わった。ただ問題が残った。蔡と実行会が協力して砂浜から掘り出した廃船の行方だった。
 廃船は蔡によって2つの作品に生まれ変わっていた。1つは骨組みだけを使って木造船の美しいフォルムを浮かび上がらせた「迴光―龍骨」。そしてもう一つが廃船に張られていた板を使ってつくった「三丈の塔」。蔡は板をはがすとき、実行会のメンバーに「1つのかけらも棄てないでください。取っておいてください」と指示している。蔡にとって、その2つの作品は、みんなの協力のたまものであり、今回のプロジェクトと個展を象徴する作品といえた。
 20年もの間、砂浜で眠っていた北洋サケマス船を呼び起こし、みんなの協力を得て掘り起こして2つの作品としてよみがえらせた。それは、みんなの力であり、いわきの力でもあった。プロジェクトも個展も、その作品も、いわきでなければあり得なかった。蔡はその作品の1つひとつが、いわきで生まれ、いわきで育ち、いわきで朽ちていくべきだと思った。しかし、そうは行かなかった。
 まず、「迴光―龍骨」は市の配慮で小名浜・三崎公園内に設置されることが決まった。しかし、3段に立てると9メートル99センチにもなる「三丈の塔」は宙に浮いたままになった。実行会は仕方なく、それを保管することになった。「三丈の塔」は藤田忠平が住む北茨城の山に雨ざらしになって眠ることになった。10とか100になると完結してしまうが九とか99は永遠。塔にはそんな意味が込められていた。だから「永遠にいわきにあるべき三丈の塔がいわきに置けない」という現実は、蔡を落胆させた。
 しかし、「三丈の塔」は死ななかった。東京都現代美術館に出品し、3段重ねのあるべき姿で展示したあと、ベニスビエンナーレ、ヒューストン、リヨン、ベルギーのゲントなど世界のモダンアートミュージアムを巡回し、ギリシャの現代美術財団に買い取られた。いわきで生まれた塔は、世界を巡り、遠いギリシャに永住の地を得たのだった。
 志賀忠重にはこんな思い出がある。東京都現代美術館で三丈の塔を展示していたときのことだった。蔡は、まだ残っていた船の板を持ち込んでいた。蔡が言った。「志賀さん、その板で椅子をつくってくれませんか」。びっくりする志賀に、「簡単ですよ。まずどんなものを作るかを、全体を考えるんです。次に縦横の比率、その次は自分好きに、独創性を入れるんです。最後は調整です。客観的に見るんです」とつるりと言った。
 志賀は言われた通りに作ると、それは涼み台のような椅子になった。すると蔡は「いいです。それでいいです」と言い、にっこりほほえんだ。どうも、空間の中でのバランスを重視し、何かがほしいと考えたらしかった。志賀の椅子は三丈の塔と一緒に堂々と、東京都現代美術館に展示された。
 地平線プロジェクトから五年後の平成11年(1999)、志賀と藤田と真木孝成は、蔡國強が九十九の塔をつくる「いわき九十九の塔」というプロジェクトを企画した。蔡が「20世紀の僕の代表的な立体作品」と公言してはばからない「三丈の塔」がいわきを離れてしまった今、それに代わるものをつくり、かたちとして残そう、という思いからだった。
 まず蔡がスケッチする。さらに参加者が真木の用意した土で塔をつくる。それを蔡が手を入れて、真木が焼く。そんな手順だった。「1999年に九十九の塔をつくる」。それは、蔡と実行会との永遠のつながりを意味していた。
 参加者は約30人。みんな一生懸命つくった。そして蔡は、無邪気な心と目を持っている人の作品を絶賛した。逆に変に絵心があり芸術の常識を持っている人の作品をかなり手直しした。そして、蔡がさっと手を入れると一つひとつの塔は輝き出し、まぎれもなく蔡の作品になった。「それが何とも不思議でしたね」。真木が述懐した。
 蔡は言っている。「みんなが力を合わせればできるんです。そして、一生懸命つくったものは残ります。それは立派な芸術作品です」
(この項つづく=敬称略)




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