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 いわき民俗の伝承者として知られる高木誠一(1887〜1955)が書いた『石城北神谷誌』が、いわき地域学會副代表幹事・夏井芳徳さんの手でよみがえった。高木の著書は『磐城北神谷の話』(日本常民文化研究所刊)が知られているが、『石城北神谷誌』はそのベースになったものと見られる。高木の四男・丹野正樹さんが持っていた高木の自筆原稿(400字詰原稿用紙143枚)を、夏井さんがほぼ原文通りに本にした。そこには編集される前の風俗、因習、祭り、言い伝えなどがふんだんに収められていて、当時の「素の暮らし」を垣間見ることができる。


 高木誠一は明治20年(1887)、現在の平北神谷に、農家の長男として生まれた。旧制の磐城中に入学したが、「農家の長男に学問はいらない」と、2年で退学させられ、小学校で代用教員を務めたあと、家業の農業に従事しながら、農政学や民俗学と関わることになる。
 その転機となったのは明治40年(1907)の柳田国男との出会い。20歳だった。以後柳田の薫陶を受け続け、昭和10年(1935)には高校教師の岩崎敏夫、山口弥一郎、甥の和田文夫などとともに「磐城民俗研究会」を立ち上げる。その関係で、渋沢敬三、宮本常一などとも交流した。
 高木の人となりについて、和田が書いた文章がある。
 「懐にはいつでも何か本が入っていて、歩きながら読んでいた。小さな声を出しながら読む、軽い抑揚をつけて、つまり、音読ということになる。それでいて歩くのは非常に速かった。普通の人ではとても付いて行けなかった」(『潮流』高木誠一の世界)
 宮本常一もその著書『忘れられた日本人』で「私もまた高木さんという人を意外に思った。雑誌にのった写真を見たことがあるが、袴をつけてキチンとした姿は百姓というよりはお医者さんという印象をうけたのであるが、現実に見る高木さんはまことにたくましい老農である」と、その印象を書いている。

 『石城北神谷誌』が高木自身の手で書かれ、脱稿したのが大正15年(1926)7月。その後、岩崎と和田が中心となり、編集・校正をして『磐城北神谷の話』として上梓されたのが昭和30年(1955)12月10日。そこに29年という歳月がある。戦時中という異常事態のなか、思うように作業が進まなかったためだが、岩崎と和田の「何とか本として出したい」という執念が実を結び、高木の仕事が世に出た。
 ただ残念なことに、校正の最終段階に来て高木が病のために床に伏し、仮綴じした校正紙を見ただけで、他界してしまった。高木はそのとき、痩せ衰えた両手を布団の上に合掌して「ありがとうございました、渋沢先生によろしく…」と言ったという。本が完成したのは、死後3カ月経ってからだった。

 夏井さんはこれまでも、大須賀いん軒の『磐城誌料歳時民俗記』『磐城物産誌』を「翻刻」というかたちで復刻し、解説を加えてきた。今回も『磐城北神谷の話』の原本とも言える『石城北神谷誌』の生原稿の存在を知り、「高木誠一オリジナル以外の何ものでもない。この時代に間違いなく、こういうことが起こっている。まさにドキュメントだ。第三者の手を経ていないからこそ貴重」と感じ、復刻を中心とした本を作ることにした。残念ながら、「まえがき」の最初の部分は欠落していたが、ほぼ忠実に活字化し、『磐城北神谷の話』と『石城北神谷誌』の関連性についての考察を加えている。
 夏井さんは大須賀 軒と高木誠一の文章について「いん軒の文章は抽象的で観念的。創作も感じられるが、高木誠一の場合は、フィールドワークにもとづいていて科学的。柳田国男に言われた『自分が何とも思わないことでもキチンと記録しなさい』ということを守っている」と言う。

 『石城北神谷誌』には神、仏、祭礼、供養、不思議な話、生活など、高木が祖父や父、地区の古老から聞いた話が収められており、それを「まえがき」で「自分の見聞した事をかいた農閑手控」と表現している。雄峰舎発行、224ページ、ハードカバー、2000円(税別 )。

『石城北神谷誌』はこちらから購入できます。



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